昭和五十七年三月二十七日 朝の御理解
御理解第六十一節
神より金光大神に、いつまでも尽きぬおかげを話にしておくのぞ。信心しておかげを受けたら、神心となりて人に丁寧に話をしてゆくのが、真の道をふんでゆくのぞ。金光大神が教えたことを違わぬように人に伝えて真の信心をさせるのが、神へのお礼ぞ。これが神になりても、神より上になるとは思うな。
おかげを受けた事を人に丁寧に伝えて行く。真の信心をさせる、その事が神へのお礼とも云われます。為にはまず、私共信奉者の一人一人が見教えをまずは、丁寧に頂くことから、始めなければなりません。そして自分がおかげを受けたことを又、丁寧にお話をしてその、丁寧な話を受けた人が、真の信心になっていかれるところまで、段々おかげを頂いて参りますことが、それが神になるのぞとも、それが真の信心とも、教えておられるのですから、まず私共がまずは丁寧に御教え行ずる事、頂くこと、そしておかげを受けること、ということになるますね。でないとね、人に伝えていってもやっぱり実が伴わなければね、伝わらないのです。
そこでなら、あれもこれもと云うわけには参りませんけれどもね、合楽に御縁を頂く方達が、今、合楽で云われる、ま、合楽理念の実験実証とはね、その事に対して、合掌して受けられる。それが丁寧に受けて、実験する事だと思うです。そこから必ずです、いわゆる体験が生まれてくるです。その体験を元にして、やはり、人に又、自分が丁寧に行じた事から、はあ、おかげ頂きますおかげ頂きますばかりでなくて、自分がそれを丁寧に徹したことを伝えていくのが、本当だという風に思うです。
どうでしょうか皆さん、毎日日参をして朝参りそして一生懸命拝まれて、まあ、色々御用もなさっておられるわけですけれども、どのくらい丁寧に御教えを行じておるだろうか、どのくらい実感として成る程、成り行きの全てが、や、事柄の全てが問題と思うとったその問題そのものが、神様の働き、それは私共により、力を下さろう、より大きくならせて下さろうとする、御働きであったと体験することでありますからね、その私は実験実証が楽しゅうなり、有り難うなって行くと云うことが、必ず信心すれば一年一年有り難うなってくるし、位もつくということになってくるのです。
いくうら、昔からよく云われる、如何に神様の前に逆たんぼうたっちゃ、心改めたという風な意味のことば云う。いわゆる逆たんぼうずということは、一生懸命お参りをする、拝みもするということでしょうね。
だから勿論そん事もなさせて頂かなきゃならんけれども、丁寧に神様の御教えをいよいよ実験実証する事なんですよね。そりゃぁね、やはり、おかげと云う意味なら、それを実験実証しなくても、と、御願いし続けていけばまあ、おかげ頂くもんじゃありますよね。 けれどもね、そういうおかげはあんまり伝わらないですね、人に伝えても、自分自身が丁寧に教えを頂いてね、実験実証、そのそれを丁寧に話にしていくというもんでなからなければ。
昨日はまあ、期せずして同じようなお届けの、真、成就し、又は成就しかかっておると、ようなお届けがあった。大変難しい問題です。ある方が昨日この方は、ま、尽きに一、二回、それでもやっぱり長年信心が続いております。というのはご主人に女の方が出来た。その無念さというか、歯がゆさで何とかおかげ頂きたい、というのが始まりでしたが、昨日お礼にでて見えましたが、十八年振りでご主人が帰って見えた。
ほう、してみるとあんたの信心な、十八年間続いとったばいなと云って、昨日は云うた事でした。丁度その事が、の問題から十八年間、目に帰ってきた。そいで、あんたの信心はもう本当に細々ながらやっぱ、続いとったということ。
成る程、そいが様々苦しいことがあったけれども、苦しいたんびにまあ御教えを頂いては、ま、胸をなで下ろしながら、ようまあ辛抱がでけた。おかげで十八年振り帰ってきた。なら十八年間信心が細々ながら続いた。それもう間断な人は続いとるですやっぱ。続くことだけはね。けどももうだから私思うのに、細々でもね、続けておればおかげになる事を昨日実感しました。
これは又、ちょっとけたたましいような、もう何ともいいようなないような、同じ事でしたけれども、これは私が不在でしたから、竹内先生が電話を受けました。この人もやはり三角関係でご主人が若い女の所に走られた。そしてもう何回も何回も離縁、分かれよう分かれようということになったけれども、神様は辛抱していけ辛抱していけと云うことであった。いろんな問題が起こるたんびに、お伺いしながら、ま、お伺い、これはまあだ、一、二年くらいでしょうか、私がお届けさせて頂くようになって。ところが昨日竹内先生に電話が掛かってきたのは、その相手の女性がコロッと死んなさったというお届けであった。まあどげなふう皆さん思いますか。胸がすーっとする、しなさったかも分からんですね。
けれどもまあ、云うならば祈り殺したっちゃなかですからね、そういう運命にあった女性ですからね、そういう寿命も長い事なないのだから、辛抱せよ。そういう時期が必ず来る。これは祈り殺した、ち云うとたいへんですからね。そんな神様じゃないです。
けれどもま、昨日はこれは私が詳しくは聞きませんけれども、竹内先生までですから。ただなら、どげなふうの詳しいことは電話でしたから聞いてはおらん。ただ相手の女性がもうそれこそあっと云う間になくなられたと云うことであった。
そして神様にその事をお礼を申させて頂いとりましたら、誠という字ですね。言偏に成と書いてある。その成という字が、まあだ全部書き終わっていないと云うところを頂いたんですね。信心によるね。成という字は成就と云うことですね。だからその相手の女性の方が亡くなられたから、なら、すぐ又もとのその、所へ帰ってくるということには限らないわけですね。だからそこんところの頂き方ですね。神様に御願いをしとったけんで、死になさったという考え方ではおかげにならんね。
けどもそこに云うならばね、丁寧な信心がそこからいるんだと思うですね。そしてなら、いわゆる帰るべき所へ帰ってきてね、云うならば言偏に成という、成就ということに成らない。
だからこれをま、おかげの事あるけれども、まあだどげんなるじゃわからんけん御願いせにゃならんなとこうま、思うた事でございますね。
だからそのおかげと云うことはです、云うならば細々ながらでも、続けておれば成るのであり、又神様まかせに成っておって、さあ辛抱せよ辛抱せよと言われて辛抱のでけんところを辛抱していきよったら、そういうま、おかげになるだろうと思われるような突発的な事にも成ってくる。それをなら信心がないなら中途半端な所でもう、分かれようということに成っておったら、ご主人が帰ってこうにも、帰ってこようもないような道だけは開けたあったと言うことが、ま、有り難いのであるけれども、その道を本当に帰って来てもろうて、又、なら改めて夫婦円満なおかげを頂くと言うところまでが誠。言偏になる。云うておることが成就すると言うことになると思うんですね。
だから、そういう意味に於いてならば、そんな男女関係の事だけではない。もう人間関係だけの事だけではない。一切の上にですね。経済の問題だって、健康の上だっておかげを受けておるでしょうが。だからそういうおかげを受けるもんだからね。なかなかもって、こうして朝晩頂いとる御理解を丁寧に頂き、丁寧に実行する事を実行しないのではなかろうかと、私は思うんです。実行せんでんおかげは受けるもんだから、そうしてね、だから御神徳を受けるということには成らないと思うんですね。
いよいよ土の心でとか、いよいよ成り行きを大切にとか、尊ぶとかと本当に徹しなければダメなんです。昨日の御理解じゃない、昨日でしたかね。木や竹は折れると、金の杖をつけば曲がると、神を杖につけば楽じゃという。神を杖につけば楽じゃと言うことはね、いよいよ成り行きを大切にすると言うことであり、いよいよ土の心で受けてゆくと言う生き方なんですね。そこにきついけれども、その生き方を身につけていっておるという実証が生まれてくる。
成る程親先生が云うように、成り行きそのものが神様の働きだ。苦しいこともあるけれども、それが神様が私に求め給う修行であったと分かるんです。それをなら、丁寧に頂いていきよらないとですね、その丁寧に現れてくるおかげを丁寧に又伝えていく事が出来ないです。
そういうひとつの過程に通らせて頂いて初めてね、丁寧に伝えたことが丁寧に又伝わって、その人も又丁寧に、いわゆる真の信心をさせるのがと、云われるように真の信心をするようになる。あなたのおかげで助かったという人が出来てくる。それが神になるのぞとね。
だから私思います。今日、私特にその、いわゆる丁寧に人に伝えて行くのがt云うところに、ま、焦点を置いて聞いて頂いたんですけれども、そんならまず、丁寧に教えを行ずる事から始めなければならない。そこには必ず実証が生まれてくる。その実証を元にして、人に又丁寧に伝えていく。今合楽で何を実証して行かなければならないのか、分からなければならないのかということはね、成り行きそのものが神様の御働きであると、確信できる所まで実証を続けなければなりません。実験を続けなければなりませんね。
そこにはね、もうそん事問題と思うとったその問題が、云うなら神様の私に対する働きであり、修行でありと分かった時に、それを合掌して受けずにはおれなくなってくる。受けなければもったいないということになってくるね。そこんところを私は丁寧に、いわゆる実験実正さして頂かなければなりません。
昨日、二十五日の婦人研修会の日にある所から、見事な、後ろに荷物が載る大きなあの、高級車のような感じの、もう本当にも、こりゃ、新品じゃないだろうかということのある自動車のお供えを頂きました。それが相手が花屋さんですから、もう中は泥だらけで、半年あまりほうからかしてあったげなから、もう見る影もなか事なっとった。
それを文男先生が商いの事で、そこにやらして頂いたらそん車のある。誰かもらわれんじゃろかと、云うような話じゃった。ようと見た所がまあだ、すこししか走っとらんし、ただハンドルがどげんしたっちゃこう、あー自転車でっちゃあげなふうですもんね。癖がつきますと、もう右なら右の方へばっかり、こうこういくごたるふうな感じのある車であったね。そんならあんたもう合楽へお供えしたらどうの、ち、いうね。合楽がこれ、もろうて頂くならお供えするどこっちゃないと云うことで、まあ自動車やさんに持っていった。
なんかかんかあったね。外観は立派になった。ところが乗ってみると、まあだそんくせが治っとらん。ここば治してもらわにゃんと云うけれども、もうこれより以上は出来んですよとこういうた。そんなら、と云うて、又別な自分の知っとるところへ持っていった。ところがそこでもね、もうこれ以上は治らんですばいち。とにかくそげなこつ云わんな見てくれんの、ちいうちから、見てもろたげなら、ほんなあっと云う間にその修繕するところが本当に分かったんでしょう。乗ってみたら、ま、立派に治っとったちいう、きれいに。それこそ新車のようにお掃除をして、丁度二十五日の日に文男先生がそれに乗って、ま、お供えがでけました。
私はそれを聞きながらね、はあこの人がおかげ頂くのは、ここんにきだなあと思いましたですね。皆さん分かりますか。どこんにきかね。もうあと一押しというところでね。例えばなら、一週間も見てもらって修繕してもらって、立派になっとるけん、見かけは。それでもやっぱ自分の思うようにならない。これから先はでけんという。
もうそこまでで、お供えに持ってくると云うのが普通じゃないでしょうかね。ところがもう一辺、自分の・・・方に持っていった。そこでもでけんと云う猛れども、とにかくまあ見てくれというた。もうそれから先はも、人力でなくて、これはもう神力によって、云うならば、その丁寧な生き方が神様の心に交うて、もうその人もこれ以上できんばのと云うておったのが、出来たんです。 快適な運転が出来る。いわば良い車になったんです。だからそれから先のところが、特別な神様の働きを受けとると云うことが分かるでしょうが。
私は丁寧と云うことは、そう云うことだと思うのですね。もよかよか主義じゃいかんですね。だからいわゆる実意丁寧が金光教の信心の芯のように云われます。だから全てのことにですね、実意丁寧ね。腹を立てんというたら、立点ということに文男先生が、もう何十年間、これを行じ切っておるようにね、私は合楽理念の詳しいことは説明できんけれども、私の生き方を見て下さい。私の生き方がそのまま合楽理念ですと、云われるような生き方を身につけるということなのですよね。
私、それを聞きながら、そん時はそげん申しませんでしたけれども、感心しました。本当、たいがいな者が一週間やってもうこれ以上出来んといわれたら、そのまま悪かですばってんち、云うて持ってきたでしょうね。だけどもう一辺それを持っていった。その丁寧さに神様が感をましました。もうそこでもでけんと云うたのが、あっと云う間にでけた。見て下さい。そりゃ立派な車ですね。外観は立派であっても、なら中身もまだその、あんまり走っていないから立派でしょうがです、そういうま、どこへ持っていっても修繕がでけんけん、半年もやっぱほうくらかしてあったでしょうけれども、だからそれを又花屋さんところにもっていったげなら、こうりゃしもた、ち、云わんばかりの顔をしとったち。お供えやからもう仕様がなかね。ま、そんな汚い心をおこす人でもないですけれども、なら、そう云うことで車の献納がでけたね。
そこに携わっておる、その御用を頂いた文男先生の信心をですたいね、これは私共に欠けておるものね。それをそこに感じました。今日はそこんところへね、人にも丁寧に伝えていかなきゃならんが、まず自分自身もね、実意丁寧をもって行じ、丁寧に教えを頂いて初めて実験も実証もでける。それが積もり積もって確信を持って、人にも丁寧に伝えて行くことが出来るようになる。
そこから人の助かりね。初めてね、神に向かうのぞと云うような、云うなら道が開けてくると思うのですね。お互い信心をもう一辺ね、あれもこれも知っておる。あれもこれもかじったような、なら今日は始めにもうしましたね。十八年振りにおかげを頂いたとか、あっという間にそういうまあ、不思議な働きが起こって、ま、成就しようと、そういう働きを合楽理念では皆受けますから、そういうおかげにね、惑わされて、信心を頂くということをしない。
お取次を頂けばやっぱ、おかげを受けるから、だからではなくて、丁寧にどれ程教えに取り組んで行じておるかと、そこから実験実証が生まれてくる。その実験実証のなかに、今合楽で一番、なら、云われておる事はですね、成り行きの全てが神様の御働きであると確信できるということね、そこになら、どういう問題があろうが、成り行きがどういう事になっていこうが、神様の御働きである。
しかも私に対する御働きであるという事が分かったら、合掌して受けずにおれない、もったいない事になってくる。そこになら、問題が問題にならない。初めてその云うなら、実験に取り組ませてもらうときに、成る程ね、不平を云わんでよかった。不足を云わんでよかった。向こうに押し返さんでよかった、頂いて良かったということになる。その体験を伝えて行くならね、誰でも問題を持たない者はないでしょうね。難儀を持たない者はないでしょう。
その問題が難儀が私共に、こういう力と心に光を与えてくれる、その内容の者であるということをです。しかも簡単にね、その気になれば、それを行じていけれる生き方をね、いよいよ丁寧に身につけて、そして丁寧にそれを伝えていくというね、生き方を身につけさしてもらわな、ただそれを徹しなくても、おかげは受ける。ということで終わったら、もう一生ただおかげをおかげで、云うなら、本当に教えを丁寧に、自分のものにせんで、なりにすましていかなければならんと、云うことは、こんなに残念な事はない。
神様も又、残念に思召す事であろう。私共がそれを自分の血肉にして、初めて信心の本当の喜び、おかげの喜びじゃない、信心の喜びが頂けるようになると思うですね。 どうぞ